本記事は2024年11月、AEFA学びの造形部会で開催した講演録で、シリーズその3です(最初からお読みになりたい方は次のリンク先をクリック)。
制海政国家について
次に東南アジアで見られるのがこの制海政国家です。英語では、thalassocratic stateとよんでおります。制海政と訳したのは実は私で、80年代に出版した本にこういうのを書いたんですが、東南アジアの研究者には受け入れていただいてます。
語源的に言うと、あのタラソというのはギリシャ語で「海の」という意味です。ですから、海をベースにした、政治形態という意味なんです。海といってもいろいろな形態があります。日本で例えば村上水軍みたいなものが考えられると思うんですが、そうではなく、権力の基盤は面的に海を支配するんではなく、海峡とか川の河口とか、そういう交通の要衝を抑えるんですね。そこを通過する船から、例えば税金を取るとか、そういう形で権力の基盤、経済基盤ができてる。そういうタイプの国家があのthalassocratic stateなんです。ですから、海を面的に支配するという執着はないんですね。この形は当然海ですから、マレー世界、現在で言う東南アジア島嶼部の方によく見られるわけです。
チベットとインドとの間の山、ヒマラヤを考えていただくと、非常に交通は難しいですね。それに対して海の方は船さえあれば、どんどん渡っていきます。その上、東南アジアにも台風はありますけれども、東の方や日本列島の方には来ますが、フィリピン群島より西の方には来ないですね。それからインド洋の方にはベンガル湾にサイクロンというのはありますけれども、これも東南アジアの方には来ないんですね。ですから、東南アジアのメインの部分のマラッカ海峡あたりにはそういう嵐のようなものは、突発的には少しありますけど、ほとんどないんですね。ですから、海を渡っていくということは非常に容易だったんですね。かなり粗末な小さな船でもどんどん渡っていける。しかも、向こうが見えてるわけです。ですから、あそこへ行けばいい。向こうへ行くと、その先にまた島があるということで渡っていけますから、あの割とこう行きやすいです。
こういうところにできたのがこのShrivijaya(シュリ―ヴィジャヤ)という勢力でありまして、現在のスマトラ南部の方が中心になったと言われておりますけれども、実はピンク色で楕円が書いてありますが、あそこはシュリ―ヴィジャヤの経済圏でありまして、その領土を面的に支配してた。つまり、スマトラ島を支配して、そこの農民から税金を租税として取ってたとか、そういうことは全くないんですね。
この制海政国家というのは領土的な欲望は全くない。海峡さえ抑えて、そこを通過する船を対象にして商売する。それから税金を取るということが目的ですから。そこのとこ間違えてもらっては困るわけで、その季節風の東西から来る船はちょうどそこで風待ちをしなきゃならないんですね。ですから。西と東から来る船がちょうどそこで風待ちをするということで、長い場合は半年ぐらい季節風を待たなきゃならない。そこで商売ができる。まあ、今ではホテル業みたいなものが必要ですよね。
このシュリ―ヴィジャヤが栄えたということです。この写真見ていただくと、これは後の時代の現在のスマトラ南部の町パレンバンですけども、現在はここはイスラム教になってますが、かつてシュリ―ヴィジャヤの時代は大乗仏教が栄えてました。いずれにしてもこの写真を見ていただくと、一番上のところにモスクが見えます。つまり宗教ですね。宗教文化が伝わってきてるので、宗教の中心になっています。古代においては、大乗仏教の中心地だったのです。それから真ん中辺のところ、これ市場なんですね。東西の交易の人が、まあこうして集まって現在はまあ地元のローカルな市場になってますけども、ここでアラブやインドの商人や中国の商人がみんな来て、取引した。一番下のところ、これ川の港なんですね。
現在はこの辺の近所の船しか来ませんが、かつては南シナ海やインド洋を越えて来る船が集まってきたわけですね。つまり、宗教と商業の市場が水上交通の中心に集まっていたわけであります。マラッカ・スンダ海峡は、ちょうどパレンバンの上の方、北の方と南の方にあります。そこを抑えていたわけですね。こういう形で経済が成り立ってたということであります。
東南アジアにおけるインド化の原因
大事なポイントはインド化の原因、つまりなんでインド化というものが起こったのかということですけども、これをいろんな学者が言っておりますが。いろんな説がありまして定説はありませんで、どれも妥当に見えるんですけども、なかなか難しいです。ただ、ひとつだけはっきりしてるのは、過去においてインド亜大陸から東南アジア方面へ向かって大規模な移民があったという証拠はありません。これは現代のインドネシアやマレーシアの人たちのDNAをゲノム解析しても、インド人と全く血縁関係はありません。
インド化というのは、純粋の文化が伝播したのであって、移民によって文化がもたらされたということではないです。これは、ほぼ定説になっております。これに関して、インドのMajumdarという学者は古代においてインドからたくさんの移民が東南アジアに行ったということを主張し、かつてそういう本をいっぱい出して、東南アジアというのはグレーターインディアであると書いています。ただ、これは現在否定されております。
インド化の原因はいろんな説があり、例えばオランダの学者、Bergと書いてベルフといいますが、この人はレイデン大学の教授だった人です。この人は(1)金と香辛料を求めてる上流階級のインド人たちが冒険者として出てきたという説。
それから、私の先生で東大教授であった永積昭先生は、(2)古代ローマ帝国が金を輸出することを禁止したので、地中海から東の方へ金が入ってこなくなっちゃった。インドでは困って、東の方にその金を求めて進出してきたという説を唱えています。
それから、(3)貿易風が発見されて、決まった時期に決まった方向から風が流れてくるということを発見して、航海が長距離にできるようになって。同時に中国市場が拡大していた。仏教も広まっていったという。こういう複合的な要素でインドの文化が伝わったという。これはオランダの学者のKromという人が唱えております。
四番目にあのボスというオランダの学者が言ってるのは、渡来したインド文化人で、日本でいう渡来人ですね。あの百済とか新羅から来たような、そういう人たちのような人たちにあたるものがインドから来て、もしくはインドの方へ留学生がいって、そこで文化を伝えた。中国文明が朝鮮半島や中国大陸から日本に伝えられたのと同じような形で伝わったという説ですね。
それから先ほど言ったインドのMajumdarなどが言っている説ですが、インドからの移民によって植民地化して東南アジアはグレーターインディアンになったんだという説ですが、これは現在ほとんどの学者が否定しております。それからオランダの若くして亡くなった学者で、ファンルールという人、第二次大戦中、残念ながら戦死した人、若い時に論文を書いている人です。この人は東南アジアの土着の酋長のような人が、自分たちの権威付けの方便として、インドからバラモンを招いたというような説を唱えました。これはある程度、文献にも残ってることなんです。
次の七番目は、六番目とちょっと似てるんですが、単身で赴任、渡来してきたインド人の男性と土地の女性が結婚して、そこで文化が伝わったとか。これは移民というほどではないんですね。人数的には朝鮮半島から日本へ来た渡来人よりももっと少ないと思うんです。ひとつ根拠として、中国の太平御覧、一種の百科事典みたいなのがある。その中に、頓孫国という、マレー半島中部の現在のタイ、南タイの辺にあった国があります。そこにですね、こういう記事があって、天竺バラモンの人、千人余りがここへ来て、住み着いている。この頓孫の国の人が、「その道を敬奉する」つまりバラモン教ですね。非常に尊崇されていたので、娘をこれに嫁すという。つまり、自分たちの娘をこのインド人のバラモンたちに嫁がした。
居心地がいいから、インド人のバラモンの多くは国に帰ろうとしないで、そこに住み着いているという。そういう説がこの太平御覧にあるんですね。
こういう形で少しずつ文化が広まったという説ですね。このようにいろんな説があって、七つぐらいのものがあります。いろんな原因が考えられるわけです。
(続く)後日掲載