本記事は2024年11月、AEFA学びの造形部会で開催した講演録で、シリーズその4です(最初からお読みになりたい方は次のリンク先をクリック)。
土着文化との混交・同化
最後の方の説などは比較的根拠がありそうで、代表的な例として、この扶南という東南アジアで最初にできた古代国家があります。現在、カンボジアの東南部からベトナムのメコンデルタにかけての地域にあった国ですけど、この扶南という国の建国伝説が中国の文献に残ってます。これを見ますと、やはりさっきの話と似ていて、天竺のバラモン混填、これはカウンディニアっていう名前が翻訳されたものです。天竺のバラモンがある日、その夢を見て、神様からこの剣を授かるのです。夢が覚めたらお寺の境内にその剣があったので、それを持って船に乗り東南アジアの方へ来たとか。現在のカンボジアあたりまで来たら、そこに柳葉という名前の女王の治める国があった。ちょっと邪馬台国の卑弥呼みたいな話ですが、この柳葉のところへ、バラモンの混填が軍勢を率いてこう攻め込んでくるんですね。そうすると、神様から授かった剣を持っているので、柳葉の軍勢が倒されて行くわけですね。柳葉は負けてしまうわけです。面白いんですけど、柳葉は殺されたのかというと、そうでなく、この天竺バラモンは柳葉と結婚し2人で国を作ったというんです。平和的な結婚ですけど、これが扶南という国の建国の始まりというようになってる。このような伝説を見ても、たくさんのインド人は来ないけど、彼らが持ってきた文化によって、あの東南アジアがだんだんインドの文明に染まっていったということが言える。
その一方で、ここに山の王と書きましたけど、もともとカンボジアにはこういう山とか丘の上でその神様を祀る信仰があったわけです。インドの文化が来る前からで、それがインドの文明が来ると、この上にある神殿で祀ってある神様が本来の土着の神様じゃなく、ヒンドゥーのシバ神とかビシュヌ神という形になる。例えばこういう山が今でもあるんですけど、こういう山の上に、今はヒンドゥー寺院が立ってますが、ヒンドゥーの前からこういうことはあったらしいですね。こういう形でインドの文化と基層文化が混交し、acculturation文化変容を起こしたのです。このインド的なもの、そのままじゃなかなか受け入れられない。ある程度土着のもの、日本でいうまあ神仏習合みたいなものと考えていいと思うんですが、そういう形で、王様もそれを利用し、一般の民衆を支配する道具に使った。
こういうことは一般的にカンボジアとか、ジャワとかで見られるのです。例えばインドには見られないような東南アジア独特のものとして、例えばハリハラという神様。このハリハラというのは半分がシヴァで半分がビシュヌになるんですけど、インドにはこういう神様はいないんですね。東南アジアでは、例えばこれはラデンヴィジャヤ王というジャワの王様のお墓の上に建てられたもので、ラデンヴィジャヤ王は死後、そのハリハラになったという。そういう発想なんですけども、このハリハラなんていう神はインドにはありません。
インドの文化が全部伝わったかというと、やっぱり限界がありましてね。一番わかりやすいのはカースト制度ですね。インドのjati、varnaこれは伝わっていません。基本的にあの東南アジアでは形だけ、例えばバラモンだけはいたりしますけども、インドのような細かいjatiのようなものは存在していないんですね。まあ、この辺がインド文化の限界だというふうに私は思います。
危機の13世紀
先ほどインド化の時代は三期に分けられるって言いました。13世紀に大きな変化が起こるんですね。13世紀に何が起こったか。日本でいうと鎌倉時代の前半になりますけれども、特にこの時代に革命が起こったとか、侵略が行われたとかではないんです。この13世紀に、東南アジア全域もちろんインド化された地域だけです。フィリピン群島とかインドネシア東部は除きます。それ以外の地域でほぼ一世紀の間に徐々に変質していくわけなんですね。それをまあ、その13世紀の危機というふうに呼んでるんです。
その結果ですね。13世紀が終わると、現在の東南アジアの島々、マレーシア、シンガポール、ブルネイといったような地域はイスラム化します。バリ島だけが例外的に残りますね。ヒンドゥーとして。他のところは全部イスラムになります。それから、インドシナ半島の方、カンボジア、タイ、ビルマ、ラオス、この辺からベトナム南部も含めますが、この辺はそれまでヒンドゥーだったものが同じインド文明のものではありますけれども、仏教テーラヴァーダブディズム(上座部仏教)に変わってしまうんですね。はっきり島嶼部と大陸部が違う文化になってしまう、こういう状況が起こります。大雑把に言うと、この上の方が上座部仏教。この黄色い四角の地域は、ほぼテーラヴァーダブディズム(上座部仏教)が支配的になった地域。下のグリーンのところは、イスラムが現在まで中心になっているところ。こういうふうにまあ大きく分けられます。
この文化の分裂が起こったのが13世紀ですね。13世紀以後の東南アジアはまず四つの地域に分かれます。インドシナ半島の大陸部はテーラヴァーダブディズム(上座部仏教)の世界。ベトナムだけ、特にベトナムの中北部は中国文化圏のまま。この13世紀を超えてもあまり変化なく残っていきます。それから現在のインドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイを中心とした地域は島嶼部ですけど、イスラムの世界になります。唯一、その影響を免れたのはバリ島ということになります。ヒンドゥーが残っています。先ほどから言っているように、インド文明が全く伝わっていかなかったフィリピン群島やインドネシアの東部は部族社会のままで古代国家ができることなく、16世紀以降ヨーロッパ勢力の支配下に入っていく。最初に来たのはポルトガル、スペインですね。こういう形で、この四つの地域に東南アジアは色分けされるようになる。
これがあの図で地図に当てはめるとこういう形になりますね。真ん中のところ、イスラム圏で左上が赤い枠のとこが上座仏教のとこですね。黄色い楕円形のところが中国文化圏ですね。右の方にあるあの丸い二つ部族社会と書いてある。これはフィリピン群島とインドネシア東部です。ここは先ほど言ってるように、イスラムも、その前のヒンドゥーや仏教も何の影響もないままに、近代の植民地支配の時代になっていく。まあこういう形なんです。この色分けですね。この四つの色分けっていうのが、現在の東南アジアの文化の多様性のもとになってる。この東南アジア。例えばヨーロッパと比較しても、そんなに広い地域じゃないんですね。にもかかわらず、ここには四つも非常に多様な文化があります。イスラムもあり、仏教もあり、キリスト教もあり、中国文明もありと非常に多彩な文化が東南アジアに見られるというのも、その原因は結局、この13世紀以降が元になっている。こういうことをよく頭に置いていただくと、東南アジアがあんなに多彩な地域になっていることがご理解できるんじゃないかと思うんですね。
私の話をあんまりしてると、皆さんディスカッションできなくなります。まあ、私からの問題提起という形で、あとは自由に質問していただくなり、そういう形でしたいと思います。一応、私の話はこれでお終いにしておきます。